木村勝明 Kimura,Katsuaki

ー幼年から青年の頃ー

1950年 名古屋市港区に生まれました

    海に囲まれた埋立地で幼年期を過ごす

    お祖母ちゃん子でした

    その後、キリスト教会(カソリック)の幼稚園

    父は名古屋港の検疫官

    母は看護婦でした

       

       小学校に入る少し前に蒲郡市に引っ越す

    少年期は三河湾に面して、竹島や大島など島が浮び、背後に山がある

    蒲郡に育つ。山・海・島と陽光が満ちた素晴らしい幼年期をここに過ごす。

    伊勢湾台風が来て、名古屋南部が壊滅的な被害が出たのは

    引っ越して3・4年しての事だった。

     

1960年代 名古屋の県立旭ヶ丘高校美術科に学ぶ、70年安保とベトナム戦争、

    大学紛争が荒れ狂った時代だった。

 

    

 

    

影響を受けた先輩たち

影響された画家~蒲郡の小田正春さん

 高校時代に姉の美術クラブの顧問をされていた小田さんを訪ねた

彼は、戦前東京で独立美術協会で活躍した。高畠達四郎と親しくしてもらったらしい。

毎日曜日、描いた絵を持って訪ねる私を、暖かく迎えていただいて

美術の話、絵の批評、色々なアドバイスをいただいたのだが、私が高校3年の頃

急にお亡くなりになって、忽然と私の前から去って行かれたのだったが、

2・3週間ぐらいあとに奥様から呼ばれて、工場の中にあったアトリエを始めて見せて

いただいた。高い壁に沢山の作品が飾られていた。

その時の驚きと喪失感を今でも思い出す。

戦前描かれた黄色い服の婦人立像
戦前描かれた黄色い服の婦人立像
戦前の裸婦(卒業制作と聞いている)
戦前の裸婦(卒業制作と聞いている)
戦後の作品「鍛冶屋」題名不明
戦後の作品「鍛冶屋」題名不明
戦後の作品「三河湾の夕日」題名不明
戦後の作品「三河湾の夕日」題名不明

 

  今から見ても、素晴らしい才能を感じる。しかし彼らの世代の不運は戦争があったことだ。

20代をほとんど戦争に時間を奪われた感をぬぐえない。まったくもったいない事だった。

但し、彼は中国戦線に従軍するも死なないで帰って来た。それは不幸中の幸いだったのだろう、

戦後は再び東京に出た、しかしご尊父が急に亡くなられ、織物工場の経営をしなくてはならなく

なって、蒲郡に帰る。高校の美術講師などもされながら、絵筆を時々は取られたのだろう、

でも戦前の活躍は見られなかった。

 

  私は高校生のころ、関係ない姉の先生を訪ねて、勝手に意気投合して通うようになり

いろいろな話を聞いて、あっという間に亡くなられて、私の前から去ってしまったのだった。

 今、彼の一生より長く生きた私自身を発見して、驚くのみなのだ。

 光陰矢の如しである。 

                          

                          木村 勝明(2009年11月記)

もう一人の蒲郡の影響を受けた画家・磯野常雄

  この画家は、小田さんの亡くなられた後、友人の先生で

遊びに行って好きになった人、遊びに行っては話し込んだ。

私が東京に二十歳のころ出て、なかなか会えなくなったが、

結婚して二人の娘がまだ小さかった頃

帰郷しての帰りに偶然東海道線で再会した。印象に残る出会いだった。

というのは、しばらくして亡くなったと聞いたからだ。  

  しばらくして豊橋の市立美術館で遺作展が行なわれて

見に行った事を思い出す。

 

 

ヨーロッパ滞在中の作品
ヨーロッパ滞在中の作品
著書「美をきわめたるもの」より転載
著書「美をきわめたるもの」より転載

熊沢五六という人

 私が愛知県立旭丘高校の美術科に入って1番影響を受けたのは、やっぱりこの人だった。

当時、名古屋の徳川美術館の館長さんで、週に一回2時間の美術史の講座にいらっしゃった。

最初の授業がケーテコルビッツのスライドで、本物と偽物を見分ける目を持つ事を強調された。

当時70何歳だったのだろうか?リベラリストというのか、過激で自由で面白い爺さんだった。

彼は京都帝大の経済学の河上肇教授(第二貧乏物語で有名な学者)に学び、その後美学美術史に

転進した人。大正デモクラシーの息吹を感じる人柄(と勝手に思い込んでいたのかもしれないが)授業では徳川美術館の展覧会を参観することも度々あって、私が自分なりに日本の美術史や、古い美術品の目利きが進んだのはこのおかげだった。とにかく、熊沢五六先生の言葉には力があった。納得させる教養の奥行きが感じられた。

 

 だから、よく遊びに行くようになった。迷惑な生徒だったのかもしれない、お家にも

出かけて、話を聞いたり、ご馳走になったり、とにかく楽しい思い出だ。

歳の幅はいろいろあったが、先生を囲んだ集いのようなところに顔を出して、ちょと五六ファンクラブのような感じがしたが、先生は絶えず社会的な問題を、解りやすく話し、当時ゲバ学生の大学での騒乱が大きな社会問題になっていた頃には、吉野源三郎の「君達はどう生きるか」

という戦争中の有名な本を、「君はもう読んだのか?」と熱心に勧められていた事を

思い出す。その頃、私は先生の熱烈なファンの一人だった。

 

 徳川美術館の館長室や応接室に飾ってあった、ドイツの画家の小さな風景画や、佐分利眞の

テーブルに向かい合って座る労働者の絵とか、先生の家で見せてもらった甲斐庄楠音の

役者絵や日本髪の女の顔など、情念と云うか、今までの日本画のイメージをおおきく変える

内面的な絵など解説してもらいながら見た事を、今でも懐かしく思い出す。

 

甲斐庄楠音「悪夢」部分より
甲斐庄楠音「悪夢」部分より

 熊沢五六先生が若いうちに読むべき本ということで推薦されたものはほとんど読んだ。

 

シェンキィッチ「何処へ行く(クォ・ヴァ・デイズ)」

ジョンリード「世界を揺るがした十日間」

エドガースノー「中国の赤い星」

トルストイ「戦争と平和」「復活」「アンナ・カレニーナ」他

夏目漱石「虞美人草」「心」他

ドストエフスキー「罪と罰」「カラマアゾフの兄弟」他

イプセン「幽霊」

ハウプトマン「日の出前」

シェイクスピア「ハムレット」他4大悲劇

マルクス・エンゲレス・レーニンの七大名著

他にも長塚節「土」を上げていたかなーって思い出す。

 ほとんど読んだと思うが、それらが今となってはかけがえの無い

心の財産となっている。若い頃に貪るように読んだものだ。

ありがたい事だったと思う。